沈下橋
今日も仁淀川沿いに歩く。
途中で沈下橋を見つけた。
沈下橋とは何か、詳しく調べたわけではないけれど、増水時に沈んでしまうぐらいの低い橋のことだと思う。
確か最初の頃の沈下橋は、柱の上に木の丸太を並べ、丸太を両岸からロープでつないでおいたもので、雨で川が増水すると上の木の丸太は水に浮いて流されるが、ロープで繋ぎ止められる、といった仕組みだった気がする。
もう一つ。
浅尾沈下橋と言って、こちらは景観が良いことから映画の撮影などで使われることも多いらしい。
僕の他に、写真を撮りに来ている人が二組いた。
湧き水
歩いていると水をよく飲む。
水分補給は熱中症対策にもなるので、喉が渇く前に飲むようにしている。
これまでは、500mlのボトルをザックに外付けして、すぐに飲めるようにしていて、ザックの中に、2Lのボトルを入れて補給用としていた。
しかし、今は川沿いで水が手に入りやすいので、500mlのボトルだけにしていた。
奇跡の清流と呼ばれるだけあって、仁淀川の水は綺麗だが、それでも農業排水があるので、本流の水は避けたい。
湧き水か、農地を通っていない支流の水が良い。
昼食をとった後、水がなくなったので歩きながら湧き水を探したが、意外と見つからない。
ようやく見つけたのはちょろちょろと少しずつしか出ない場所だった。
しゃがみ込み、ボトルの口を開いて構えるが、あまりにゆっくりなので腰が痛くなる。
近くにザックを下ろしてボトルを湧き水の下に構え、そのまま置いておく。
5分程かかって、ボトルはいっぱいになった。
喉が渇いていたので一気に飲む。
…美味しい。
外はこんなに暑いのに、水は冷たい。
よく冷えたミネラル豊富な湧き水に身体が喜ぶ。
その時僕は、ああ、自然の恵みとはこういうものだよなぁ、と思った。
水道の蛇口をひねったように、一瞬でボトルいっぱいの水は手に入らない。
けれど、5分待つだけで、労せずして500mlのボトルいっぱいの水が手に入る。
ミネラル豊富でとても美味しい水だ。もちろんタダである。
しかしこれを、大規模な装置をあちこちに設置して全部持っていこうとすると、おかしなことになる。
そんなことをするのは、金のためである。
500mlの水で満足していれば、自然は人を幸福にするだけの器があるのだ。
古来より人も他の動物と同じように、自然に抱かれ、幸福になる恵みを与えられている。
それで満足せずに独占とか根こそぎとか考えるのが人の強欲だ。
強欲は人を不幸にするとしか思えない。
他人を不幸にするだけではない。
自分を不幸にするのだ。
物質的な豊かさは幸福には繋がらない。
幸福は精神的な豊かさによってもたらされるものだ。
物質的に満たされようとする時、それは精神的な豊かさを手に入れるための行為であるべきで、精神的に満たされる分を超えて求めてはいけない。
その欲に限りはないのだ。
どこまでも物質的に満たされようと必死な人、金にばかり目を奪われている人は、豊かさの本質とは何かを一度考えてみるべきだ。
疲労
脚が疲れ、足の裏が痛く、肩が痛く、腰が痛い。
今日は昨日より歩いていない。
思ったより歩けていない。
こういう時は、一日休息が必要だ。
一月程図書館通いだったから、身体が鈍ったのかもしれない。
今日の泊まる場所を探す。
しばらく歩いた先に、地図上では河川敷に砂利の陸地がある。
それを目指して歩いた。
もう歩けない、というところでたどり着くと、その場所は採砂場になっており、関係者以外立ち入り禁止だった。
こうやって、人は自然を私物化する。
その砂利を作ったのは、あなたたちではないだろう。
さらに数km歩かなければならなくなった。
うんざりしながら歩いてたどり着いた所は、同様に採砂場になっていた。
くたばれ。
さらに先の砂利場まで歩く気にはならない。
けれどここは駄目なので歩くしかない。
途中、小さな支流の方に草がぼうぼうに生えているが入っていけた。
支流から水も汲める。
ここでいいや。
奇跡の清流と呼ばれる仁淀川に重機が入って砂を採っていく光景は、怒りを通り越して呆れ返る。
これはやっていいことなのか。
日本の法律はこれを規制しないのか。
ここで採った砂はどこで売られるのだろう。
『奇跡の清流仁淀川の砂』とでも題して売り出すのか。
そしてそれをみんなが買うのか。
馬鹿馬鹿しい。
まるで出来の悪いコメディだ。
テントを張ったところには三つ葉が自生していた。
卵と三つ葉の味噌汁にしよう。
あとはナスとピーマンの焼きびたし。
明日は歩きたくない。
しかし晴れだからテント内はサウナになるだろう。
近くに休める場所はなさそうだ。
どうするかな。
歩いた距離:23km