今日はなんの日か
5月24日。
今日はなんの日か。
そう。
映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション後章』の劇場公開日である。
…おそらく知らない人が多いであろうこの映画について軽く触れておくと、浅尾いにお原作の漫画をアニメ映画化した作品である。
主役二人の声優をYOASOBIの幾田りら、同じくアーティストのあのちゃんが務めている。
一ヶ月と少し前、前章が映画で公開された時、僕はYOASOBIとあのちゃんの曲をよく聴いていたので、声目当てで見に行った。
すると予想外にストーリー含め映画の内容が面白く、声もとても良かった。
そのため後章を楽しみにしていたのだ。
しかし問題はこの辺りには映画館などないということだ。
徳島の映画館は徳島市、つまり吉野川河口の方に一つ、高知でも中心部にしかない。
香川にある映画館は三日前に目指せば近かった。
三日前、そのことには気づいていたが、そこで映画を目指しても公開まで3日待たなくてはいけない。
さすがにその3日がもったいないので、先に進んだ。
次に映画館を通るのは高知の中心部である。
到着する頃まで映画がやっていることを願うしかない。
考えごと
朝、味噌汁を飲むか飲まないかという葛藤を端にして始まった考えごとは、実にこの日の半日以上僕の頭の中を独占した。
結果として、この日僕は考えごと以外に書くことがあまりない。
強いて言えば、吉野川は美しい。
さて、考えごと以外に書くことがないのならそれについて書くしかないのだが、今日頭の中を駆け巡った諸々の事柄を詳らかに話すには実に半日以上の時間がかかる上、まったく整理された思考でもない。
ここは情報が8割型吉野川に流されることを覚悟でまとめてみるべきだろう。
朝、テントの中には冷や飯の入った鍋がある。
これにふりかけをかけて食べれば朝食の完成である。
しかしそこで思う。
『味噌汁が飲みたい』
ならば飲めばいいのだがそこでまた思う。
『味噌汁を作るのは面倒だ』
これがすべての始まりであった。
面倒、とは単に手間を惜しんでいるわけではない。
バーナーを取り出して火を点け、鍋に湯を沸かして味噌を溶く。
食べ終わったら鍋に加えバーナーを片付ける必要がある。
時間がかかるのだ。
そして出発が遅れる。
出発が遅れることを僕は嫌ったのだ。
結果だけを言うならば味噌汁を作って飲んだ。
美味かった。
しかしそれでは終わらなかった。
味噌汁を作ることを選択した僕は、味噌汁を作ることを躊躇した僕を許さなかった。
曰く、その考え方は良くない。
そして、『その考え方』に対する批判はこれまでの旅の中に見られたいくつかの局面にまで波及した。
かくして、僕による僕に対する僕のための論争が幕を開けた。
強調しておくのは、これはきっかけがくだらないだけであって、考えごとの内容自体はくだらなくない、むしろ重要なことだということだ。
少なくとも僕はそう考えており、それ故に書き記すのである。
旅の楽しみ
問題となったのは、味噌汁を食べるという楽しみを見つけておきながら、出発が遅れるからとやめようとしたこと。
僕の旅には、日本一周する、全都道府県の最高峰に登る、自然環境を見るなどの目的がある。
しかしもし、それらの目的に終始することになれば、旅はおそろしくつまらないものになるだろう。
旅にとって大切なのは、行き当たりばったりの楽しみなのだ。
だから目の前の楽しみこそ大事にしなければならない。
目の前の楽しみを積み重ねることが旅の楽しみであり、一生記憶に残るような楽しみも、なんてことない思いつきから生じるのだ。
にもかかわらず、目の前の楽しみを放棄するとは旅人の風上にも置けない。
旅はゆっくりすればいい。
急ぐ必要などどこにもないのだ。
むしろゆっくりであればあるほど良いとも言える。
自らに正直であれ
そもそも、この旅を楽しむことこそが、この旅をする一番の目的ではないのか。
ブログにも書いたが、僕はこの旅の目的を、日本でどれだけの自然がこわされ、それでもどれだけの自然が残っているのか、それを守るためにはどうすればいいのか、を知ることであるとしている。
それに比べて、日本一周自体に大した意味はないとも書いた。
今一度問う。それは本当か。
嘘ではない。
それは確かにこの旅の極めて重要なテーマだ。
しかし、そのために旅をするのか?
逆に言えば、それが必要なくなれば旅をやめるのか?
否。
それは言いすぎというものである。
なぜ日本を一周しようと思ったのか。
これにはいくつもの理由があり、思惑がある。
きっかけは、世界を旅する前に日本のことを知ろうと考えたことだった。
しかし何よりも明らかな最初の理由は、『日本一周したかったから』である。
やりたいと思ったからやる。
それ以上の理由などない。
さらに言うと、楽しそうだから、となる。
陳腐な答えだと思うか。
しかしこれこそが、最も純粋で、旅に対して真摯な理由なのである。
ではどうして、そう言わないのか。
なぜ日本一周するのか、何のためかと問われた時、失われた自然と残された自然を見て、どうすれば守れるか考える旅などと答えるのか。
それは、馬鹿にされるのが嫌だったから、ではなかったか。
歩いて日本一周しようと決めた時、どうしようもなく頭に浮かんだのは、世間からの白い目だった。
何のためにそんなことを、定職にもつかずふらふらと、遊んでいるだけではないか。
そんな言葉が駆け巡った。
僕は、自分の人生については、かなり悩み、考えた自信がある。
今も考え、悩み続けている。
同世代の誰よりも、自分の人生に真摯に向き合っている、と勝手に思っている。
考えて考えて考えて考えて、こうしようと決めた。
そこにはいくつもの理由がある。
けれど、その理由を懇切丁寧に説明しても理解できるのはごく一部の人だけだろうし、説明しなければ、誰も理解できないとさえ思っている。
だから、そのいくつもの理由を説明することはできない。
だから、何か分かりやすく立派な理由を防波堤にして、誰からも馬鹿にされないようにしたのではないか。
馬鹿め。
この期に及んで、まだそんな皮を被っているのか。
自らに正直であれ。
でなければ、感性が濁る。
この旅は、純粋であるべきだ。
旅に意味をもたせようとするな。
有意義なものにしようとするな。
ただ楽しむことに、何よりも大きな意味がある。
ただ内から湧き出る好奇心と興味に従い続けることだけが、僕が旅でやるべきことなのだ。
自然を見て回るということも、その範疇であるべきだ。
馬鹿にする連中など放っておけ。
楽しそうだから旅に出た。
楽しむために旅をする。
こちとら弱冠23歳で住所不定無職。
旅に出たのは楽しむためだ。
なんか文句あるか。
何よりも大事な今のために
人生で最も重要なのはいつだって今である。
人生は今の積み重ねなのだ。
そして現実は今にしかない。
今に向き合うことこそが大切なのだ。
世間では、未来のために苦しんで頑張る人が称賛される風潮がある。
それこそが最も偉い人であるかのようだ。
確かに、未来のために頑張らなければならない時が、人生にはある。
それは褒められるべきことだ。
勉強に明け暮れていた受験生時代、周囲は僕を称賛した。
しかし僕は時々、今を犠牲にしている感覚に苛まれていた。
その感覚は間違っていない。
未来という曖昧なものばかりを見つめていると、今に向き合えなくなる。
未来のために頑張っていても、現実は今にしかない。
だからいつだって、今が一番大事なのだ。
今を蔑ろにしてはならない。
本当は、今に向き合って今を楽しんでいる人が最も偉い。
もちろん、今に向き合って今を苦しんでいる人も偉い。
ただ、未来のためと言って、今は仕方ない、と今を捨てるような生き方は、本当は全然駄目なのだ。
旅をしていてもそうだ。
いつだって今が一番大事なのだ。
今しか生きることはできない。
今を大切にしよう。
今を大切にして生きるのだ。
怒り主張せよ
自らの考えを主張することは、鬱陶しがられることが多い。
自分の主張を明確にせず、どんな時でも周囲の空気に合わせて波風の立たない発言をするようなことが、当たり前になっている。
どこで?
日本でだ。
心は、どこへ行ったのか。
小学生の頃から、手を挙げて発言することが恥であるような空気を学ぶ。
そして主張をせず、周りの雰囲気に合わせて静かにしている。
周りに気を遣って。
人に迷惑がかかるから。
和やかな空気を乱すから。
僕も周りからだいぶ遅れてその空気を学び、少なくとも仲の良い友人や家族の前以外では、主張というものを避けてきた。
そして気づくのだ。
主張をやめて静かにしていると、心も静かになっていくのである。
恐ろしいことに、いつの間にか自分の考えというものが、良く言えば柔軟、しかし実際には曖昧なものと化している。
自らの意見というものは、主張を繰り返して自分の中で磨かれ、より自らの感性に従ったものとして確立していく。
しかし主張をやめると、まあなんでもいいよね、という感性をなくしたこだわりのない状態、つまり意見をなくした状態になってしまう。
その場で考えることはできるけども、磨かれていない意見は脆い。
これはきっと、今の社会で、強い主張を持つ人物を笑い、それが恥ずかしいことだという印象が広まっているからだろう。
こんなに愚かなことはない。
他人を笑い、己を恥じる社会。
皆平等に、皆同等に、同じ意見で、争いなく、波風立たず、平和な社会。
皆が他人に気を遣い、人に迷惑をかけない社会。
それが良い社会とは、到底思えない。
良い社会とは、他人の迷惑に、寛容になれる社会ではないか。
その上で本当に許せないことは断固として許さず指摘するべきだ。
他人を笑うな。
自らを恥じるな。
怒れ。怒り主張せよ。
怒りとは主張の源である。
怒りの熱が主張に心を込める。
いつも冷静で口先だけは一流のソフィストなどと話し合う価値はない。
主張には情熱が、心がこもるべきだ。
静かであろうとするな。
無害であろうとするな。
いつの間にか自分の感性も心もなくなってしまうぞ。
闘え。
己が心を感性を、闘って守るのだ。
世の若者よ、僕よ。
怒れ。怒り主張せよ。
といったことが考えごとの内容だった。
実はこの後色々あったのだが、もう夜遅いのでそれは明日書くとしよう。
歩いた距離:23km