自然農法について
わら一本の革命を読み終えた。
福岡正信という人は、電気も水道もない山小屋に人を受け入れ、作業を手伝わせ、食事を提供していたようだ。
山小屋には、様々な人が流れ着き、やがて去っていく。
特に人生に迷った人や、自分がなぜそこに来たのかも分かっていないような若者が来る。
筆者はそこで彼らと様々な話をする。
その様子も本に書かれているが、本当に孔子や老子など中国の昔の思想家とその弟子のようである。
筆者はそこで、自然農法について聞いてやってきた若者は、私が何もしない農法というから、ここに来て、朝から水汲みなどの仕事で大変なことに驚く、というようなことを言っている。
つまり、彼はできるだけ何もしない、自然農法もできるだけ何もしない、と言いながら、どうやら結構働いていたらしい。
では、『自然農法で日曜日のレジャーとして農作して、生活の基盤を作っておいて、そしてあとは好きなことをおやりなさい、というのが私の提案なんです』という言葉は何だったのか。
ここで主に2つの答えが考えられる。
1つは、当たり前に考えられるように、日曜日のレジャー感覚で農業ができるわけがなく、自然農法ならほとんど手を加えなくていいのだ、という誇大広告のために、筆者が嘘をついていたということ。
もう1つは、自分の家庭の食事に困らない分の農業をするだけなら、実際に労力は少なくて済むが、筆者は他にも色々やっているから仕事が多くなっているということ。
本当のところは、この両方なのではないかと思っている。
まあしかし、何もしないのが良い、あくせく働くなんて馬鹿だ、と言いながら、自分から仕事を増やしているのでは、この人もなかなか矛盾しているように見える。
また、この人の農園はまだ残っていて、今では三代目、つまりお孫さんが継いでいるようで、ホームページをちらっと見た。
時期によって農園手伝いのボランティアを募集していて、なかなか人気なようだけど、そちらもほとんど毎日働くスケジュールのようだ。
僕が言う、働くより怠ける方が良い、というのは、主に余裕ある生活こそが精神的に豊かで幸せになる道なのだ、との考え方から来ている。
よって自分が好きな仕事に没頭することを馬鹿になんてしないし、自分の生き方に誇りを持てるなら仕事一辺倒でも良いと思う。
ただ、人生とか生きる目的とか、大事なことを考えることから逃げるように、働き詰めることが馬鹿だと思うのだ。
そして、生きるための仕事、料理であるとか、水汲みだとか、人によっては狩猟採集だとか農業だとか、こういう行為は非常に重要だと思っている。
筆者も同じように考えて、できるだけ何もしない自然農法ではあるけども、自然と生きることと同義な仕事、それを仕事と言い表すべきか分からないが、その活動を好んでやっていたのかもしれない。
ただ、『自然農法で日曜日のレジャーとして農作して、生活の基盤を作っておいて、そしてあとは好きなことをおやりなさい、というのが私の提案なんです』という甘い言葉に惹かれた僕としては、あれ、なんか話が違うんじゃないか? とは思う。
自然農法の実際とはどういうものなのだろう。
もう少し調べる必要があるだろう。
ヤギ
すぐにもう一冊自然農法の本を読む気分ではなかったので、別の本を探す。
ヤギに興味があったのでヤギの本を読む。
ヤギは歴史上人類が犬の次に飼い始めた動物と言われている。
草を食べてくれるため、草刈り用として導入されることも多く、そう言えば、僕の通っていた中学でも学校敷地内の草刈りのためにヤギを飼っていた。
また、ヤギからとれるミルクは美味しく、チーズにも使われる。
僕がwwoofで滞在した農家さんも昔はヤギを飼っていたらしく、ヤギは良い、ヤギのミルクは美味しいとしきりに言っていた。
その上、家畜として飼いやすく、人に懐き、可愛らしいという良さもある。
実際はどんなものかと本を読む。
ヤギにも種類があるが、ミルクをとるならこの種、というのがあり、その種だと、一日3~4Lのミルクがとれるらしい。
そんなにとれても飲みきれないが、ヤギは寂しがりやらしく、数頭同時に飼うケースが多いようだ。
wwoofの農家さんは、1頭でも飼っていたはずなので、1頭でも問題ないと思われる。
草刈り用として導入する場合、春から秋はよく草を食べてくれ、餌をわざわざ用意しなくてもよく、ミルクもとれるのでとても飼いやすい。
冬場の食料確保が問題だが、こちらは飼料を買う他、年中生えている草を刈ってきて、与えるのでも大丈夫らしい。
アヒル
僕は以前からいつかアヒルを飼ってみたいと、消極的な夢を抱いていた。
消極的なのは、そのために人生を選ぶほどの気持ちではなく、もし生きていてそういうのが可能な状況になったら、というぐらいの気持ちだからだ。
大学時代、研究でマダガスカルに行ったときのことだ。
中国系のホテルに泊まり、夜は同じ大学の面々でそこの中華料理を食べた。
各自好きな料理を注文して、回転テーブルを回しながら食べる。
こういうのは色々食べれて楽しい。
この時、ダック、つまりアヒル肉と野菜を炒めたものがあったのだが、これが明らかに群を抜いて美味しかったのだ。
他の料理も美味しいのだが、アヒル肉だけは別格。
なぜこんなに美味しいのか分からない程だった。
通常、アヒルを食べるとすれば北京ダックで、皮だけだ。
だからアヒルの肉を食べる機会というのはそうそうない。
しかし僕は知ってしまった。
アヒルは美味い。
ひょっとしたらあそこのアヒル肉が美味かっただけで、日本で家禽として飼い始めてもあの味は手に入らないかもしれない。
しかし忘れられないのだ。
まさかアヒル肉を食べるためだけにもう一度マダガスカルに行くわけにもいかない。
だから、僕が定住する時が来たら、アヒルを飼ってみたい。
僕が食べるためだけに。
僕だけが食べるために。
草刈りのために、ヤギやアイガモ、ガチョウ、アヒルなどを飼っている人の本があった。
アヒルも草刈り要員として導入できるらしい。
アイガモなんかは田圃でよく使われる。
アヒルもあんな感じだ。
どうやら卵も結構取れるらしい。
大きさは鶏卵と同じぐらい。
そして孵化させることもそれほど難しくなさそうだ。
つまり、卵を孵化させ、育てて食べればエンドレスである。
エンドレスアヒル。
これは素晴らしい。
アヒルの卵の味にも興味がある。
肉の味は鶏とは全く違う。
むしろ爬虫類とかカエルの方が鶏に近い。
水鳥はまた全然違うんだなと思ったのを覚えている。
肉がそれだけ違うなら、卵も違うだろう。
一体どんな味なのか。
ああ、食べてみたい…
小さな畜産
この草刈りとして家畜を導入し始めた人が、小さな畜産というのを勧めていた。
大規模に、仕事として畜産をするのではなく、草刈り用に、少数飼って、卵や乳、肉をいただく。
こういう形はどうか、と。
最近の農業や畜産は、近代化して、頭を使って工夫しなければどうにもならなくなってきている。
しかし、本を読んでいて思うのは、自分が食べる分だけなら、農業も畜産もそれほど難しくはないのではないかということ。
もちろん様々な手間はあるだろうが、初めから儲けることを考えなければ、それほど大変ではないのではないか。
一切の問題は、金から生じているのではないか。
稼ぐ分も使う分も減らし、自給自足に近い形で生きるなら、ほどほどの仕事量でどうにかできるのではないか。
特に実行する予定はないが、そんな生活を想像しながら、本を読んでいる。
なかなか楽しい。
歩いた距離:2km