歩いて日本一周ブログ

歩いて日本一周する記録とか雑記

再開

再出発

ようやく梅雨が明けた。

正式な発表は見ていないが、今日からは晴れだ。

長らく僕の生活の拠点となった橋の下から出ていく時が来た。

 

しかしいざ出発しようとすると、あれだけ準備したにも関わらず、問題が出てくる。

ポリタンクの穴。

高知に着く前、水を入れる2Lのタンクに小さな穴が空いていた。

これを着いてから塞いだのだが、やはり駄目だった。

新しく買わないといけない。

 

そしてザックや食料袋、鍋を入れる袋のカビ。

こいつを熱湯で殺菌する。

 

アウトドアショップが開くのを待って、新しくポリタンクを買った。

橋の下に戻って出発の準備をしていると、にわか雨が降った。

もうすぐ昼なので昼食にする。

 

雨が止むのを待っていると、アジア系の外国人のカップルが橋の下に来た。

一人は傘を持っているが、雨宿りだろう。

雨宿りなら他に場所はいくらでもある。

けれど僕には彼らの気持ちがよくわかった。

慣れない異国の地、カフェなどに入ればスマートな雨宿りだけれどそのためにお金を使うのはもったいない。

どこにいれば落ち着けるのか、簡単な場所が分からない。

そんな時、人目につかない橋の下はちょうど良いのだ。

 

橋の下はそこそこ広い。

僕から離れたところに二人は座った。

ちょうど二人が来る直前まで、僕は暇つぶしにオカリナを吹いていた。

彼らが来たからといってやめる理由はないだろう。

 

Take me home, country road

橋の下はオカリナの音は綺麗に響く。

向こうから小さな歓声が聞こえた。

 

曲が終わると雨はやんでいた。

ザックを背負う。

別に急いではいない。

ただ、ようやく歩けると思うと、少し急ぎ足になった。

 

 

説法者

今、ザックはかなり重くなっている。

高知で動かないのを良いことに調味料やら米粉やら色々買った上、野菜も多く、米は5kgを買っており、プロテインが1kg。

実は最初ザックが閉まらなくて、どうしようかと思った。

なんとか入ったが、重い。

なぜか腰ベルトが滑り、上手く腰に乗せられないので、ほとんど肩に荷重がかかった。

しばらく歩いた所で、おっちゃんに声をかけられた。

 

この人は、僕がこの旅で会った2人目の説法者であった。

挨拶もそこそこに、この人が僕に説いたのは、法華経のすすめであった。

 

曰く、人は誰しも身体の中に生命力を持っており、この力をうまく引き出し、知恵を得ることができればその人の真の才能を発揮できる。

その力を引き出すためには正しい哲学を持つ必要がある。

この哲学が法華経である。

法華経には人の人生の細部に至るまですべてを余すことなく書かれている。

法華経こそが真の仏教の教えである。

これは全てお釈迦様が言っている。

 

まず面白いと思ったのは、法華経とは哲学であるというところ。

これは納得できる要素がいくつかある。

 

そもそも、宗教の中で仏教は異質だ。

どこが異質かというと、他の宗教が神を崇め、祈るものであるのに対し、仏教における仏様とは、開祖のブッダであり、実在した人物である。

そして、仏教とは元々、仏様に祈る宗教、ではない。

自ら修行を積んで、悟りを開き、解脱することを目的としている。

 

では悟りとは何か。

僕は宗教には詳しくない。まったくだ。

ただ、自然農法を開発した福岡正信、彼が放浪の末倒れるように野外で眠りに落ち、目覚めた時に、『この世には何も無いじゃないか』と悟り、人間がやってきたことすべてに意味がなかった、人のやることに意味はない、何もしないのが良い、と考えるようになった、というエピソードを読んだ時、こういうのを悟りを開くと言うのではないか、と思った。

 

つまりある日突然、そうとしか思えない思想、哲学を得ることを悟りというのではないか。

だとすると、仏教とは元々ブッダの哲学だ。

その目的は、最初に悟りまで到達したブッダの教えをヒントに、正しい哲学を得ることにあるのではないか。

 

ブッダはおそらく、歴史上一、二を争うほどの賢者だ。

意味が分からないほど頭が良かったに違いない。

その人物がこれこそが正しい哲学だと後世に残したものが仏教だとすると、仏教に対する見方も大分変わってくる。

 

ただここで問題なのは、法華経こそが正しい哲学であり、他は正しくないとするおっちゃんの話が正しいのかということ。

おっちゃんによると、法華経とは数ある仏教の宗派の一つではなく、お釈迦様が直接作り出したものであり、これに背くいかなるものを広めることも、親を殺す以上の罪であるらしい。

そして法華経を一般にも分かりやすくしたのが日蓮聖人の南無妙法蓮華経である、と。

彼はさらりと言ったが、彼は創価学会らしい。

 

さて、創価学会とは聞き覚えのある単語である。

確か創価学会は極悪であるとして、公明党とその裏にある創価学会の悪を広めるために日本中を回った人がいたような…。

そう、僕が会った一人目の説法者、ホームレスのおっちゃんである。

 

何の因果か相反する思想を広めようとする二人の説法者に会ったことになる。

片や見た目はどう見てもホームレス、近づくと臭い、歯がこぼれ落ちそうな老人で、片や最終学歴小学校卒業で起業し、日本一の売上を5回叩き出したと豪語する老人、おそらくどちらも年齢は70代だ。

 

さて、正直なところ、僕は法華経に少し興味を持った。

法華経の名前ぐらいは覚えているが、実際にどういうものか、中学生レベルの常識すら覚えていない。

法華経それ自体について、仏教における法華経の位置、そして歴史、日蓮の南無妙法蓮華経との関係。

ひょっとすると、仏教とは何だったのか、ブッダの教えとは何か、ということに少し近づけるかもしれない。

 

自ら修行して悟りを開くことが目的だった仏教が、他の宗教と同じように祈ることが主体になったのは、庶民に仏教を広めるための変質であったろう。

その変質は仏の教えに背くものではなかったのか。

このおっちゃんも言っていたが、僕が法華経に興味を持ったというそのことだけでも未来永劫何度生まれ変わっても変わらない価値であるという。

これもお釈迦様が言ったとか。

意味がわからない。

興味を持つとか、祈るとか、そんなことだけでは哲学は理解できない。

仏は何を考えていたのか。

 

法華経には興味を持った。

ただ、僕を萎えさせたのはこのおっちゃんの勧め方だった。

彼は最終学歴が小学校卒業だそうだ。

就職したがやめさせられて、仕方なく自分で起業し、大成功、日本一の売上を5回叩き出した、と何度も繰り返していた。

 

ところで、話の途中で自分の功績を何度も繰り返す人は、そのことでこちらの意識に何かを訴えかけている。

大抵の場合それは、自分がすごい人なのだと相手に理解してもらおうとする試みだ。

だがこのおっちゃんの場合は、その側面もあるかもしれないが、その達成に憧れてもらい、だから法華経はすごいのだ、と訴えかけているように思えた。

 

気に入った女の子と会社をやって大成功、そんな言い方をしていた。

つまり、この教えを理解すれば金と女が手に入る。

 

また、勝ち上がる、と何度も言っていた。

最終学歴小学校卒業だが、社会に出たらいつでも勝ち上がってきた、と。

打ち勝つ相手は自分だけでいい、自分に打ち勝つことで、自然と他人にも打ち勝っている。

お釈迦様もそう言っている。

 

君は顔の相が良い。

それに知恵がある。話していて分かる。

あと君に欠けているのは正しい哲学だ。

それさえあればどこへ行っても勝っていける。

 

といった話には、興が削がれた。

第一に、僕は金にも女にもさして興味はない。

勝ち上がることも興味はない。

自らに勝つ、これは重要なことだ。

しかしその時、他人に勝っているかどうかなんて気にする必要がない。

あと顔の相ってなんだ、法華経を読んだら人の顔の相が見られるようになるのか、あんた本当は占い師じゃないの?

 

嘘か本当かは知らない会ったばかりの人の話だ。

人の話は話半分。

ただ、相手が自分の体験や功績を話す時、とりあえずその内容は正しいと仮定して聞いている。

このおっちゃんは、小学校しか卒業していないのに、自分のところには何人もの大学の教授が質問に来ると言っていた。

法華経についての質問だ。

この話を信じるなら、法華経に対する理解は随分深いようだ。

 

その結果、得られるものが資本主義社会で競争に打ち勝つ知恵と、女性にモテることだとしたら、期待外れも良いところだけど。

売上日本一というのが、どの範囲で何に関してのことなのか聞いていないので知らないけれど、きっとすごいことなんだろう。

だが、まったくもって、羨ましくない。

別にその達成を否定するつもりはないけれど、僕にとっては価値のないことだ。

 

この人は、法華経について深い理解があるらしいけれど、それによって得られた知恵を資本主義社会で勝ち上がり、金を稼ぐことに使ったらしい。

金に本質的な価値がないことには、気づいていないようだ。

すると、この人が絶賛する法華経もあまり期待できないのかなと思ってしまう。

 

ホームレスのおっちゃんは、創価学会をかなりの悪だと言っていた。

こちらも極端な意見である。

日蓮平清盛の孫(ひ孫だったか?)で、宗派を立ち上げたのはそれによって平家の最後の挽回を図るための策。

紀貫之の知恵を借りて巧妙に作り出した教えには、日蓮の隠された意図がある。

こっちのおっちゃんの話はあまり筋道が通っておらず、理解できない事が多かった。

とにかく公明党創価学会は悪であり、それを広めているらしかった。

 

ところで、創価学会だという法華経のおっちゃんの宗教勧誘の手口は新興宗教のやり口とよく似ている。

金、女、成功、秘められた才能を開花、あなたには知恵がある、根拠は顔の相。

ここまで言ってしまうと、素で法華経を勧めたいだけだった場合おっちゃんが可哀相だが、しかしこんなあからさまな勧誘の仕方なのに、僕がこのやり口が新興宗教と同じだと気づいたのはおっちゃんと別れてしばらく経ったあとだったのだから、話術があったのだと思う。

こんなやり方ができて、社会的成功者で、金を重要視している価値観。

ホームレスのおっちゃんが言っていたことは案外当たっているのかもしれない。

まあ、その手口で法華経のおっちゃんが僕にしたことは法華経を勧めることとジュースを奢ってくれたことだけなので、まったくと言っていいほど害はなかったのだが。

 

 

夜のピクニック

今日は仁淀川河口の浜辺でキャンプだ。

久しぶりに焚き火で夕食を作る。

そうしていると、もう暗くなっているのに、若い女性二人が浜辺に来た。

何をするのかと思っていると、浜辺にレジャーシートを広げ始めた。

なるほど、夜のピクニックか!

 

きっと簡単なつまみと酒を持って来ていて、海と星を見ながら談笑するのだろう。

素晴らしい。

人の幸せとは何かをよく分かっている。

起業して日本一の売上を出すことは羨ましくないけれど、こっちは少し羨ましかった。

 

幸せな時間の使い方するなあ、と思っていると、あ、僕もか、と気づく。

目の前には焚き火、そのすぐ上にさそり座が輝いている。

日曜市で買ったナスを唐揚げに、きゅうりを浅漬けにした。

その味は無類であった。

 

月と星がきれいな夜。

焚き火がパチリと鳴る。

僕の旅が再開した。

 

 

歩いた距離:19km