車
僕は今、何をしているのだろうか―――?
硬いコンクリートの床、雑然とした部屋、蛍光灯の白い光、バイクをギリギリまで傾けてカーブするライダーの大きな一枚写真、薪ストーブ、真ん中の木テーブル、デザインがバラバラの椅子、巨大なクマのぬいぐるみ、数え切れないほどの車の雑誌が壁に飾られている、壁にかかる複数の釣り竿、テーブルの上には僕が空にした湯呑みと僕が食べたお菓子のゴミ――
大分の田舎の自動車屋の事務所で、何をすることもできず、何もすることがなく、ただ何かもわからない何かを待っていた。
どう考えても僕がここにいることはおかしい気がした。
とても居づらい状況の中、出ていくという選択肢は既にないため、まるでここにいるのが当然かのように、堂々と椅子に座っていることだけが、僕にできるすべてだった。
どうしてこうなったのか。
僕に落ち度はなかった。……はずだ。
腹の中を煙のように後悔が満たしていくのを感じながら、僕は昨日の午後11時を回想する。
ネット小説を読んでいた。
1日中読んでいて、どうせ暇だったくせにネット小説のために夕食を作るのも面倒になってカップ麺で済ませ、どうせ明日も雨だから、と10時に寝ることを拒否してダラダラとネット小説を読む生ぬるい心地よさを引き延ばしていた。
大音量で何かを響かせながら休憩所に入ってくる人がいた。
当然僕はびっくりしたが、薄暗い室内で僕の存在に気づいたお兄さんの方がよっぽど驚いていた。
お兄さんは素知らぬふりをして休憩所から出ていったが、少しして戻ってきた。
「こんばんはぁ……」
「あ、こんばんは」
「自転車とかで旅されてる方?」
「いえ、歩きです」
「え!? 歩き? いや、たしかに……外に自転車なかったなぁと思ったんよ」
外には車も自転車もなく、誰もいないはずの道の駅に僕がいたので、相当驚いたようだった。
お兄さんはツーリングが趣味だそうで、僕が歩いて日本を一周しているということにこれまでにないほど興味を示してくれた。
正直もう眠かったのだが、興味津々な様子で、「え、ちょっと聞きたいことめっちゃあるんやけど」「どうしよう、何から聞こう」などと随分テンションが上がっている様子を見てそれを言えるほどには、僕は図太くなかった。
とはいえ、既に歩いて日本一周者が僕以外にも結構いることを知っている僕としては、お兄さんの反応は大げさにしか見えない。
いや……ほんと大したことないですよ、僕は。
ただのキモいやつです……と思いながら、熱くなっている彼の質問に答えていった。
そこから「僕と友達になってください」という王道少年漫画でしか聞いたことのないセリフを真っ直ぐ言われ、特に断る理由もないので「おお、ぜひお願いします」と答えた。
こんなことは初めてだ。
でも友達というのは関わらなければ自然解消するだけの関係に過ぎない。
この人はどのくらい本気なのだろうか。
などと最低なことを考えていた。
ラインを交換しようと言われたので応じたが、これも放っておけば消えるつながりに過ぎない。
そろそろいい加減眠い。
別にこの人のことが嫌な訳では無いし、むしろ旅の話をするのは楽しいのだが、そろそろ寝かせてくれないだろうか。
「――明日、明後日も雨なので、この道の駅にいられて幸運でした」
「お、じゃあ明日、明後日もここにいる感じ?」
「うーん、雨がやんでいけそうだったらいきますけど、予報を見る限り無理そうですね~」
「じゃあ、あなたのその2日間俺にくれんか?」
え。
「俺、親父の車屋に勤めてるんやけ、そこで2日間働かんかな?」
ん? え。
なんか雲行き変わってきたぞ。
「食事も風呂も用意するんで。2日で……6000円、1日3000円で。洗車とかしてもらって。ここでぼーっと2日過ごすくらいなら、俺にその2日ください」
あー……ん?
ちょうど、どうせこのままだと北海道辺りで金が尽きるとか、高知で金稼ぎを試みたが失敗したとか、そんな話をしていたこともあり、その提案は至れり尽くせりのものだった。
とはいえ……ここから彼の車に乗って彼の家に行き、2日働いて車でここまで送ってもらって、また歩き出すわけだ。
これはありなのか?
歩いて日本一周的に。
乗り物はなし、でやっているが、この乗り物移動は旅のためでなく金を稼ぐためだ。
元の場所からスタートするし。
それであれば、既に徳島のwwoofでやっている。
なら、ありなのか。
他に断る理由はあるか?
ない。
眠い、ということぐらい。
テンションが合わないが彼は決して悪い人ではないだろう。それは伝わってくる。
しかもここで2日食費を無駄にするより、6000円稼いだ方が良いに決まってる――
十五分後、僕はお兄さんの運転する車に乗っていた。
どこに行くのかもよく分かっていなかったが、着いたのは彼の仕事場の車屋だった。
そこで荷物をおいて、風呂に入る用意だけして車を変え、彼の家に向かった。
お兄さんはしきりに風呂に入らせてあげるけえ、と言っていた。
いや、昨日入ったよ? だから別にいらないんだけどなぁ、と思ったが、そんなに臭いだろうか。
お兄さんの家に着く直前に、彼は結婚していて、家には奥さんがいることが判明した。
お兄さんは僕より3歳年上。
平静を装ったが、かなり動揺した。
それ大丈夫なのか?
玄関に通されると、奥さんの靴と小さな子供用の靴があった。
これ大丈夫なのか?
家の中は綺麗で、ちゃんとした家という感じだ。
ああ、やばい……すごく入りづらい。
これはあれだ。小学生の時、いつも一緒に泥だらけになったり汚い池に入ったりしている友達の家に、汚いままノコノコついていくと、その友達の家がすごい綺麗で玄関口からフローリングに踏み出す時躊躇するあの感覚――
今思い返してみれば自分の家も普通に綺麗だったのだけど、そこは自分の家だから躊躇とかなかった。
恐る恐るあがると、寝室らしき部屋にお兄さんが顔を突っ込み、奥さんと話している。
「挨拶だけ……」などとお兄さんの声が聞こえ、奥さんが戸惑いながら出てきて僕はひたすら恐縮して挨拶した。
どうもお兄さんは僕のことを事前に伝えてくれていたわけではないようだ。
まあ、いきなり決まったことだったしなー。
とりあえず風呂に入って、と言われ、その通りにした。
風呂場で体を洗いながら、早くも不安でいっぱいだった。
本当についてきて良かったのか?
親父の車屋に勤めている、とか、親父も気にせん人やから、とか言っていたからてっきりお兄さんは実家ぐらしで、僕はお兄さんとお兄さんの両親のいる田舎の古い家に泊まらせてもらうのだと思っていた。
小さな子供と若い奥さんのいる綺麗な家とはまったく思っていなかった。
僕みたいな汚くて怪しい人間はそういう場所に入れないのだ。入ってはいけないのだ。吸血鬼が太陽の下に出られないのと同じ。
とりあえずできる限り全身を綺麗に洗ったが、僕は洗剤が肌に触れると肌荒れを起こす体質のせいで水洗いしかできない。
僕が風呂から出るとお兄さんが風呂に入った。
一人居間に残る。
…………。
何かを取るために奥さんが寝室から出てきて、すぐに寝室に戻った。
僕とは目も合わない。
気まずい……。
僕、今晩この家で寝るのか。
きついなあ。歓迎されてない空気をひしひしと感じる。
やがてお兄さんが風呂から出てきたけれど、しばらくは僕のことは放置で動き回っていた。
スマホを見るふりをしながら待つ。
「よし。じゃあ行こう」
え。どこに?
どうもここで寝るわけではないらしいことに非常に安堵したが、もう少し説明というものをしてほしい。
とりあえずついていくと、車に乗りこんだ。
開口一番「かあ〜、やっぱ嫁には勝てんな」などと言う。
「やっぱり反対されたんですね」
そりゃあそうだ。という気持ちで言ったら、「反対? いやそうじゃなくてタイミングの問題」
と返ってくる。
奥さんが明日朝早いから今日だけは泊められない、という話らしい。
そうなのか。まあ嘘では無さそうだけど。
普通に断られてもおかしくないと思う。
結局、仕事場の自動車屋で、打ちっぱなしのコンクリートの上にマットを敷いて寝袋で寝ることになった。
ああ、なんという精神的安寧か。
お兄さんはこんなところに僕を寝かせることを随分申し訳無さそうにしていたけれど、あの綺麗な家よりよっぽど寝やすい。
大体、地面が平らで水平で雨風しのげて蚊もいないのだから何一つ問題のない完璧な寝床だ。
ぐっすり眠れた。
翌朝。
目が覚めて、まだ暗いガレージの中、ネット小説を読んでお兄さんが起きるのを待っていると、知らない人が入ってきた。
うわあ、めんどくせぇ……。
そのおばちゃんはしばらく僕に気づかずにガレージを開いたりなんたりしていたが、ガレージが開いて明るくなったことで僕の姿が目に入る。
こちらから声をかけるとかなりびっくりされるだろうからあえて黙っていたが、向こうから気づいても驚くものは驚く。
なにせ知らないやつが仕事場で寝ているのである。
おばちゃんは僕を認識すると、「ええ!? 誰!?」と予想通りの反応をする。
まじでなんで肝心な時にお兄さんいないんだ。
僕が不審者になるだろうが。
とりあえず簡単に事情説明と自己紹介をした。
おばちゃんはお兄さんのお母さんらしい。
ガレージに隣接する事務所の方でお茶と菓子を出してくれたのでお礼を言ってボリボリ食う。
しばらくするとお兄さんがやってきた。
昨日はすぐ横の車の中で寝たはずだったが、どこに行っていたのだろうか。
「おはよう!」
「おはようございます」
お兄さんは元気よく挨拶した。
僕がお兄さんの紹介の前におばちゃんとエンカウントしたことについては一言もなかった。
うん……大雑把で細かいことは気にしない性格なんだろうなぁ。
豪放磊落という言葉がよく似合う。
それから、お兄さんは忙しく動き回り、僕はただやることがないままに椅子に座っていた。
社員さんやお兄さんの親父さんである社長さんもやってきて、その度に簡単に自己紹介した。
みんなやることがあって動き回る中、僕一人だけがただ椅子に座っていた。
手持ち無沙汰。
耐えられず、お兄さんのところに行って「何か仕事ありますか? 何でもやりますよ」とは言ったものの、事前に説明していたが僕は洗剤が触れないので、洗剤が肌に触れないようにする手袋がないと洗車ができないし、運転免許証はあるものの生粋のペーパードライバーのため運転はできない。
車の運転は本当に苦手だ。
性格的に合っていない気がする。
一度に色んなところに気を配らないといけないとか無理だ。一つのことに集中することしかできない人間なのだ、僕は。
考えてみれば僕ほど車屋に向いていないやつもいない。
しばらくして、お兄さんはなんとか僕にもできそうな仕事を見つけたらしく、やってきた。
「行こう!」
どこに? の説明はなかったが、今よりはマシだろう。
「行きましょう!」
と元気よく答えた。
連れてこられたのは車の前で、どうもこれを運転してお兄さんの運転するトラックについてこいということらしい。
いや、だから運転できないんだって!
僕は実はやろうとすればそこそこ運転できるけどしたくないからペーパーだと答えている偽ペーパーとか、数年運転してないけどやろうとすれば運転できる擬似ペーパーではなく、正真正銘運転できないペーパーなのだ。
それは運転しないと死ぬという状況なら運転するし、そこまで追い詰められればできないことはないと思うが、車屋さんの車を壊すかもしれないと思うとさすがにここで首を縦に振るわけにはいかなかった。
せめて助手席に誰か乗っていてほしい。
しかし今の状況、それなら僕が運転する意味はないのだ。
頑なに断ると、おばちゃんが自分の仕事をおいて車に入ってくれた。
「仕方ないよ。車壊してもいかんしな」
僕はとぼとぼ事務所に戻り、椅子に座った。
ここで冒頭に戻る。
僕、何しに来たんだろう……。
致命的なほどに車屋に向いていない人間だ。
戦力外すぎる。
これほど気まずい時間はなかった。
迂闊なことはできないので待っているしかない。
このまま1日が過ぎていくのだろうか。
ネット小説でも読むか。
そう考えれば道の駅にいるのと変わらないか?
いやいやいや、気まずさが違う。
僕はなんの罪悪感もなく道の駅でダラダラしていられたのに、この車屋でみんな忙しそうに仕事をする中、一人ダラダラしているのはもう相当なきつさだ。
ああ、この話、受けるんじゃなかった。
ここに来たことを、早くも後悔していた。
車屋
地獄のような時間は、戻ってきたお兄さんから車のワックスがけという仕事をもらうことで終わった。
ワックスがけのあとは水拭き空拭きをする。
社長さんがそれを見て、「え。仕事してる。アルバイトんなったん?」と驚いていた。
そういえばその説明はしてなかったな。
空拭きまで終わって事務所に戻ると、お兄さんや社員さん含め何人かが談笑していた。
「終わりました」
次の仕事はまだないようなので、とりあえず椅子に座って会話に加わった。
どうもここの仕事は、ずっと動き回っているのではなく、適当な所で談笑やタバコなどの休憩タイムが入るらしい。
しかも、初めは社員さんかと思ったが、中には談笑だけして帰っていく人も少なくなかった。
あとから聞いた話では、彼らは友達兼お客さんであり、そういう人たちがよく来るみたいだ。
どうも社員さんは僕もその類だと思っていたようだ。
というか実際ほぼそうなった。
この1日、僕のやった仕事はワックスがけと水拭き空拭きを2台分。
時間にして合わせて約1時間程だろうか。
残りの時間は談笑していた。
僕にできる仕事はないのだから仕方がなかった。
これはお給料をいただくわけにはいかないな、とは思ったが、ただ飯を食わせてもらえるだけで十分すぎる対価である。
しかもお客さんや友達が事務所に来てはお菓子をおいていき、それを食べて食べてと言われるままに食べていたのでお菓子もかなり食べている。
朝の地獄のような時間から一転、天国のような時間が始まったのである。
みんな日本一周している僕の話を面白そうに聞いてくれるので話す方も楽しい。
特に、お兄さんの親父さんとは波長が合って、話すのが楽しかった。
昼になったら弁当を買ってきてくれて、それをみんなで食べた。
豪勢な昼飯だ。
ここに来て良かった。
仲良くなった、お兄さんの親父さんともラインを交換した。
お兄さんのお母さんからは米やら乾麺やら色々もらった。
楽しい時間も終わりが来て、明日はどうも雨が止みそうなので、今日でお別れとなる。
夕方になるとお兄さんとお兄さんの友人とラーメン屋に行き、好きなものを食わせてもらった。
お兄さんは友だちが多く、以前このラーメン屋でアルバイトしていたこともあり、勝手知った様子でサービスしてもらっていた。
その後は風呂屋に連れて行ってもらい、至れり尽くせりの後に道の駅まで送ってもらった。
素晴らしい時間だった。
良い出逢いだなあ。
下関を通る時になったら連絡を入れるからそこでまた会おうと約束して別れた。
歩いた距離:0km